現在、様々な地域にある「兆治」
展開に至ったエピソードや、
鉄板鍋という料理ができるまでの歴史
焼肉店時代のオーナー(樋髙茂幸)
焼肉店のまかないが発祥
鉄板鍋は焼肉店のまかないをきっかけに始まった。
すき焼き鍋に、余った具材と特製ダレ、キムチを入れると今まで味わったことのない美味しい料理へ変化した。
新たな発見だ、と、毎日食べるようになった。
そして、焼肉店で働いていた樋髙に誘いがあった。
「平野区でテナントがあいた。居酒屋せえへん?」
そこで、樋髙は思い立った。
「あのまかないでよく食べてる鍋屋やりたい!
あんなに美味しいんやから、お客さんに絶対喜んでもらえるはずや!」
そこから、料理を提供するための準備を始める。まずは大事な「鍋」を探しに、難波の道具屋筋へ。
10種類以上の鍋を購入し、いつも通り、具材・タレを入れてみる。
「これやったら出汁しみへんなあ」「これは火の通り遅くないか?」
まかないでは何とも思っていなかった部分も、お客様の立場になるとまた変わってくる。
何日も探して回り、面白い鍋を見つけた。
「丸い鉄板や、何用の鍋なんやろ?」
購入し、持ち帰って、いつも通り具材を入れた。いつものように出汁を注ぐ。
火をつけると、 火の通りが驚くほど早い。出汁もすぐ染み込んでいく。「これや!」
高倉健のファンだった樋髙は、映画「居酒屋兆治」から「兆治」という店名に。
こうして『兆治』は、大阪市平野区へ、1986年(昭和61年)12月8日オープンした。
上記ホルモンを入れたオリジナル料理「鉄板鍋」-発祥店でお召し上がり下さい-
様々な地域に広がる兆治と「ひらの兆治」の誕生
その珍しい味と料理は、瞬く間に地元で広まり、長蛇の列ができる程になった。
その後、共同経営者と兆治の店舗数拡大を目指し、樋髙は人材育成を担当した。
包丁の持ち方、切り方、肉の見極め方、鍋の楽しみ方や食べ方、出汁の状態に対するそれぞれの対応方法・・・
一緒に働き、自身のこだわりや技を教え、その後、共同経営者と共に様々な地域へ兆治をオープンをさせた
しかし、急激な展開を急いだあまり、兆治全体の歩幅が揃わなくなった。そこで、各店舗それぞれのペースで兆治を経営していくことを決意。
新たな気持ちでスタートを切ることにした樋髙は、創業者本人が手がける「兆治」を初心を忘れないよう地名を付加した店名「ひらの兆治」とへ変更した。
お客様の要望もあり、平野店はテーブルで座れるお店へ改装。
さらに平成8年(1996年)12月3日、大阪市我孫子へ、お子様もゆったりと座ることができるような大型店をオープンさせた。
上記ホルモンを入れたオリジナル料理「鉄板鍋」-発祥店でお召し上がり下さい-
ひらの兆治の現在
多くのお客様へご利用いただけるようになったある日、樋髙はあることに気づいた。
…テッチャンと同じくらいアカセンが売れている。
「テッチャンだけでなく、初めからホルモンを2種類入れた方がお客様も嬉しいのでは?」
ホルモンがテッチャンだけの”テッチャン鍋”から
甘いホルモン”アカセン”を加えた新たな鍋を考えついた。
「どうせ鍋の名前を変えるなら、心機一転、お店も改装したい!」
そう思いたち、社員や店舗デザイン会社と会議を繰り返すことになる。
店舗デザイン会社の提案もあり、テッチャンとアカセン、2つのホルモンを入れた鍋の名称はテッチャン鍋から、「鉄板鍋」へ。
店名は、お客様のおかげ、社員のおかげという感謝の気持ち表した「の」へ。
こうして、2002年(平成14年)10月5日に「鉄板鍋屋の」がリニューアルオープンした。
ありがたいことに、TVでの取材なども受け、20年以上お客様に愛される店となった。
そして、平成29年(2017年)12月15日、
社員の独立とをきっかけに、「鉄板鍋屋の」は「ひらの兆治 寺田町店」へ東住吉区へ移転した。
東京で会社勤めをしていた創業者樋髙の娘を新オーナーに迎え、現在も、本家店舗「寺田町店」と「平野店」では、創業約40年、家族で変わらない味を提供している。
上記ホルモンを入れたオリジナル料理「鉄板鍋」-発祥店でお召し上がり下さい-